こころざし高く まず一歩 1月
―Aim high, then take your first step.―
「目と心に 明確な標的の薫る日こそ 生涯で いちばん美しい日だ」とは詩人宮澤章二さんの詩の一節。目が一定の方向を指す行為を〈めざす〉、心が一定の方向を指す行為を〈こころざす〉というが、私たちはこの人生で何を目指し、何を志して生きているだろうか。
私は小学生の頃の作文で「プロサッカー選手になりたい」と将来の夢を疑うことなく書いたものの、叶わなかった。同じ小学生の作文で「プロサッカー選手になり、イタリアのセリエAのチームで10番を背負って活躍する」と書いたサッカー日本代表のエース本田圭佑選手は、その夢を今まさに実現している。有言実行とはこのことだ。
本田選手と私を比べてはおこがましいが、同じ小学生の頃に描いていた「プロサッカー選手」という夢。一方はぼんやりとして輪郭がない。もう一方はしっかりと夢の形を掴んでいる。この具体性の差はそのまま、夢に対する思いの強さの差なのかもしれない。夢や理想をただ漠然と抱くのではなく、明確に具体化することが大切だろう。
ところで、「夢」と「志」は、似たような意味を持つ言葉だが、使い方は異なるそうだ。夢は自分自身の理想や幸せを願うものであるのに対し、志は世のため、人のため、広く皆の幸せを願うときに使うという。幸せになりたいのが「夢」で、幸せにしたいのが「志」。
法然上人のお言葉に触れるとき、例えば、武士の津戸三郎為守に宛てた返事のお手紙の中には「往生にこころざしあらん人は」「こころざしを金剛よりもかたくして」と、私たちが目指すべき極楽往生という目的に対して、「志」の言葉を多く使われている。阿弥陀さまの極楽浄土へ往生させていただくのは自分自身だ。同時にそれは、縁ある周りの方々を導くことでもある。
先日、あるお檀家さんが「和尚さん、人間って儚いね。生きるって尊いね。やっぱり南無阿弥陀仏ってせんば(しなければ)。阿弥陀さまに手を合わせんば…」と話された。普段は気さくで冗談も言うような人だが、立て続けに身近な人の無常の出来事に遇われたことで、思うところがあったのだろう。自らの人生の目指す方向、志すべきものが明確になられたのだと感じた。
法然上人は「これと決めた行を修めようという気持ちがあれば、それは志がおこった証です」と仰られる。人生は一度きりしかない。「ただ何となく過ごして人生を終えないで・・・」という上人からのメッセージを胸に、目指すべき道のりを確かめ、それぞれの一歩を踏み出そう。
(佐賀県鹿島市 三福寺 永田知徳)